コピント 有限会社フタバ社

わが町紹介  〜白石開拓物語〜

白石煉瓦ものがたり

福禄ストーブ発明と鈴木煉瓦製造場の閉鎖
 福岡は、自分が発明した「フクロクストーブ」が大当たりしたこともあって煉瓦製造をやめたので、1922(大正11)年に鈴木煉化製造場は姿を消した。
 北海道炭鉱鉄道会社が、1898(明治31)年に江別村野幌に大きな煉瓦工場を設立し、白石村にあった館脇煉瓦工場も野幌に移転したことから、次第に白石村や月寒村の生産をしのぐようになり、野幌が煉瓦の主要生産地となったことも、工場閉鎖の大きな原因となったことはいうまでもない。

フクロク貯炭式ストーブ
鈴木煉瓦社長宅跡(現平和通五丁目北)
 やなぎ公園と駅前通りの角地に大きな邸宅と庭園があった。今、やなぎ公園の真ん中に楓やにれなどの大木が数本茂っている。当時の庭園に植わっていた樹木である。
昭和20年頃、大きな池にはあしや水草などが繁殖して、池の水面を覆っていた。大きなタニシやカラスガイなどが生息していた。周囲には樹齢を重ねたおんこが植えてあった。
社長の鈴木豊三郎は、妻の清元に耳をかたむけたり盆栽や庭木を愛した。仕事を終えたひととき、本道特産の樹木を集めた庭をゆったりと散歩するのが楽しみだったという。
長女八重の夫で鉄道技師であった福岡清春が福禄ストーブを発明し、それが大当たりとなり、その結果煉瓦製造には終止符をうった理由の一つとなった。
今は「やなぎ公園」として当時の面影を止め、公園のところどころに福禄ストーブをかたどった模型が置かれている。最近まで使用した石炭ストーブの一つ「福禄ストーブ」ゆかりの地がここにある。
その後幾十年、白石は繁華なまちなみとかわり、いつしか鈴木煉瓦や福禄ストーブの名を知らない人がふえていった。
今「やなぎ公園」は、一日じゅう子どもたちの喚声で賑わっている。


やなぎ公園

阿部久四郎と白石耐火煉瓦工場
阿部久四郎と白石耐火煉瓦工場
 越後国西蒲原郡間瀬村出身の阿部久四郎(嘉永2年11月2日生)は、1890年(明治23)年に北海道炭鉱鉄道会社室蘭線の工事を請け負って完工させたことを手始めに数々の土木工事を請け負い、やがて大倉組頭取大倉喜八郎の信頼を得て、道内屈指の土木請負業者となった。
それが縁で1904(明治37)年からは、北海道庁命令航路石狩川線も請け負うようになったが、そうしたことから機関車やボイラー等の耐火煉瓦の需要が多いことを知り、1908(明治41)年北郷の白石駅西方に白石耐火煉瓦工場を創立し、小室密雄を製造主任として並型及び異型耐火煉瓦・耐火モルタルを製造し、翌1909(明治42)年から製品を出荷するようになった。1910(明治43)年4月30日久四郎が死亡したが、男子がいなかったので石塚重五郎が阿部組支配人となって阿部組を経営したものの、引き続く不況のため家政を整理し、長女キクの夫として宮田春雄を養嗣子に迎えて二代目阿部久四郎と改名し、家督を相続させて白石耐火煉瓦工場を経営させたが、その他は全て売却するか譲渡して、阿部組を解散した。
二代目久四郎は、1914(大正3)年9月白石耐火煉化工場を白石耐火煉化合資会社として業務を拡張し、品質の改良を図った。
また、札幌市南七条西七丁目の自宅を先代久四郎の後妻ソノと三女キミに譲り、自分自身は白石村に転居して、札幌鉄道局管理下の機関車の焚き口に使用する大型煉瓦の製造を一手に引き受けたり、炭山や鉱山などにも販路を広げるなどして会社経営に努めたものの、経営は思わしくなく、1925(大正14)年工場を閉鎖した。
こうして、北郷での大規模な煉瓦生産は終わりを告げたが、瓦や土管などの製造はその後も続けられたのであった。