わが町紹介 〜白石開拓物語〜
北海道に新天地を求めて白石藩士の入植から始まった白石村
白石藩士の窮状
官軍に敗れた奥羽越列藩同盟に対する政府の処置は厳しく、仙台伊達家六十二万五千六百石は、二十八万石となり仙台支藩白石城主片倉小十郎一万八千石は伊達削封のため知行地を召し上げられ、片倉小十郎だけが給付をうけたものの、小十郎家臣に対する保障は皆無であっただけでなく1869(明治2)年4月になって盛岡(南部)藩が転封されて白石城に移転して来たため、白石藩士は盛岡藩士に土地も家も明け渡さなければならなかった。そのため片倉家では4月に藩士斉藤理左衛門と横山一郎を上京させて、家臣の生活の道を模索させたが、なかなか困難な状況であった。
盛岡藩は多額の復帰金と引き替えに9月盛岡に帰藩したため、政府は白石城に按察府を設置し、政府の出先機関として治安と行政を担当させた。
伊達領内に居住地を持たない旧白石片倉家は、新政府が打ち出した北海道開拓と北門防備のための移住計画を知り、斉藤と横山の二人はただちに白石に戻り、旧主片倉小十郎邦憲に北海道移住を進言した。
白石城 解体して渡道費用となったが、現在は復元されている
北海道移住を決意
移住の進言を受けた片倉家中は、留まるべきと積極的に推進すべきとの意見対立で激論が交わされたが、結果、共に助け合うことを誓い、一千名余が移住を決意した。
新政府に移住を嘆願、自費入植移住として許可され、その費用捻出に無人の白石城を150両で売却するなど大変な苦労を重ねたが、旅費、開拓入植に充てる費用ができ、片倉邦憲一行は、胆振国幌別郡へ向かった。
一方、角田県在留中の片倉小十郎元家来約六百名を束ねる、執事佐藤孝郷を先頭とする一行の内、先行となった120世帯401名は帆船「咸臨丸」に乗船し函館・小樽に向かったが途中、函館近海で「咸臨丸」の座礁沈没、遭難という難儀に会いながらも無事小樽に到着、銭函を経て石狩河口の石狩仮小屋に辿り着いた。
北海道移住を決意
仮小屋は全員を収容するには狭いうえ、これまで経験したことのない北海道の寒さは人々を苦しめ、年内に入植地を決めてもらい、一日も早く入植したいという声も高まってきたことから、11月16日67人が石狩仮小屋を出発し、開拓使の一戸熊太郎に案内されて札幌に到着、その後月寒坂下にあった開拓使の小屋に入り、翌17日に月寒丘陵末端の望月寒川流域の雑木を伐採し、ほぼ東西に道幅十間(18m)長さ二千間(約3,600m)の直線道路を開削したうえ、一戸当たり間口四十間(72m)・奥行き三百間(約540m)の地割を行って、間口二間・奥行三間、六坪の茅葺小屋47戸を建設した。
判官岩村通俊は11月25日この地を訪れ、その成果に感嘆して「諸君の行為は一般移民の模範とするに足る」と述べ、「郷里の名をとり『白石村』と呼ぶように」と命名した。
開拓の様子 森林を切り開いて畑を広げていった。
平和通(へいわどおり)
国道12号線と国鉄函館本線にはさまれた土地で、以前は本通0番地と表示されていたところである。昭和36年(1961)10月から三カ年札幌都市計画白石神社西土地区画整理事業が行われ、国道と本線の中間位置に道路が開削された。
道路は地域住民の話し合いの結果、この地域の平和な姿をのぞんで平和通と命名され、そのまま町名となった。環状線通を1丁目とし、平和通をもって南・北で表示して東は大谷地流通業務団地」に接し17丁目まである。